立石一真の名言15選と年表まとめ!オムロン創業者の歴史

あなたも「リフレッシュ休暇」という言葉を耳にしたことがあるでしょう。
これはある企業に就職・勤務し、課長になって6年(40代)たつと、なんと3ヶ月間のまとまった有給休暇が使い方自由でもらえるという長期休暇制度なんです。
 
みんな朝夕の通勤ラッシュにもまれ、休日出勤や残業に追いまくられ、家庭も顧みれず、家族との団欒(だんらん)もほとんでできないサラリーマン。
ところがサラリーマン生活の途中で、このような長期の「趣味の期間」「見つめ直しの機会」「家族との時間」が与えられるという、日本の大手企業としては、当時ホント始めてだった人事(福祉)制度だったんですね。
 
この長期休暇制度をはじめたのが京都に本社があるオムロン株式会社(旧名立石電機株式会社)でした。
そして立石電機株式会社を裸一貫で創業したのが、これから紹介する立石一真(以下敬称は略します)なんです。
 
裸一貫といっても、決して肉ムキムキではなくて知性や趣味人的なエンジニアでした。
なので、まだ学卒もすくなかった戦前に苦学して大学の電気科を卒業し、最初は公務員技術者としての人生をまずスタートしていたという小柄でスリムなフツーの青年だったのですよ。
 
その立石一真が長期休暇制度を採用できるような時代を先どった風土を持った企業をいかにして築き上げていったのでしょう。
このような働き方の基本となったのは「我々の働きで、我々の生活を向上し、よりよい社会をつくりましょう」とのモットーを全社員に提唱したがこの立石一真だったのです。
 
自分たちの働きを通して生活を豊かにすることで、社会もより良くしていくということです。
ここには立石一真の持論、「環境条件さえ整えれば、企業(人)は自然に伸びる」との”条件整備論”があったのです。
 
こんな立石一真が一技術者として裸一貫から立石電機を起業したのは、1933年(33才)からのことなんです。
それまでは兵庫県庁の技師や京都の井上電機勤務などを経験した後は、自営でその場しのぎ(失礼)のような商品を自分で細々と作って販売していました。
 
このような町工場以下の状態から東証一部上場の会社に創りあげたという、いわゆる「ベンチャー精神」の持ち主であったのが立石一真なんです。
また今でこそ声高に叫ばれるCSR(企業の社会的責任)のもととなる考え方をあの当時から社員教育や商品開発、また生産・販売に取り入れていた経営者は極めて少なかったのです。
 
あなたが同じような年代であって、これから起業をと妄想(失礼)されるなら、きっと基本的な起業コンセプト面でも、あなたの血となり肉となるはずです。
それではその立石一真の人生をその年表や名言で紹介していきましょう。
 
 

立石一真年表

主な功績

勲章

とくによくある大企業トップのように叙勲はされてはいません。
やはり京都を基盤とした企業で、あまり中央政治の方には正面から向いていなかったからでしょうか。
 
 

立石一真の実績

町工場であった立石電機を、社会貢献の風土を持つ大企業オムロンにまで育て上げたということが一番の実績です。
 
 

大きな実績

立石一真の言動が世の中をリードして、その言葉が産業界や経済界で流行していったことが、その実績だったといえます。
①「オートメーションからサイバネーション」
センサーやアクチュエーターをコンピューターと組み合わせてシステム化した実績。
 
②「イノベーション」や「ベンチャー精神」
起業家として創意工夫のベンチャー精神で産業界を啓蒙し、イノベート(革新)していった実績。
 
③「社会貢献」
・重度身障者が誇りを持って職場で活躍できるオムロン太陽電機の設立、また大分国際車イスマラソンの冠スポンサーなどでも先駆けた実績。
・サリドマイド児用の電動義手の共同開発(徳島大学との)で医学博士号。
 
④「大企業病」
みずからの会社を「大企業病」だと宣言し、全社員に呼びかけてそれを克服させたことで当時の企業家たちを啓蒙した実績。
 
⑤「ライフサイエンス」(生命科学)
血圧計、体温計、万歩計を初めとしたヘルスケア( 予防健康)機器の商品化から健康志向時代を先駆けて、ライフサイエンス研究所やオムロンヘルスケア社の前身を作っていた実績。
 
⑥「社会の公器性」をうたい、自らファミリー経営を脱皮していく道を作った実績。
などですね。
 
 

開発商品

いまだに「オムロンは何を作っている会社?」といわれて、体温計ですよね・・・。
改めてオムロングループの主力商品を列挙してみました。
これら創業者立石一真がすでに当時手がけたものが、今でも現事業の基盤となっています。
 
・FA(ファクトリーオートメーション)用制御機器や継電器(リレー)、センサー、マイクロスイッチなど…。
これが今でもオムロンのドル箱商品なのです。
 
またこの業界では松下電工や山武ハネウェルなど競合した企業がありました。
後発の光センサーなどでの新規参入組では有名なキーエンス社があります。
 
実は余談が合って、この産業用制御機器の分野を主事業としたいわくについて「不景気でも好景気でも、需要があるのがこの業界」、「不景気の時の省力化にも、また好景気のときの自動化でも制御商品は儲かりまっせ」。
これは都市伝説ですね。
 
 
・車載用電子機器
車メーカーへのOEM電子パーツや制御基板などです。
 
 
・社会システム機器
カード機器、金融用機器、駅務用機器、交通用機器、セキュリティ機器などの端末システムが中心です。
いわゆる家電ではなくて「社電」とも言っています。
 
 
・健康医療機器
ヘルスケア商品として、体温計、万歩計、血圧計、体脂肪計、妊娠診断約などで家庭用や医家用にグローバルに生産販売しています(後でも出てきますが「SINIC理論」という未来予測から出たとも、また立石一真が好きな西式健康法からの思いつきからかも知れません)。
などがあります。

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年表

それでは立石一真の幼年時代から老年時代までを紹介します。
 

少年時代(~10代)

・1900年(明治33年、0才)、熊本城近くの新町で生まれました。
父は立石熊助で伊万里焼の盃を製造販売、母はエイ、その長男として生まれました。
祖父の孫一は佐賀・伊万里で焼き物を習得したあと、熊本に移り住んで熊本陸軍の兵士たちに記念の盃を製造販売して家業は盛況だったのです。
 
また祖母の幸(こう)は佐賀生まれで気性の強い「葉隠れ武士道」精神の持ち主で、孫の立石一真少年を食事などの行儀作法で厳しく躾(しつ)けたのでした。
このころは家計も豊かで、幼児立石一真はずいぶん大切に育てられていたのです。
やがて祖父・祖母とも立石一真がまだ幼いときに亡くなっています。
 
 
・1908年(明治41年、8才)、この年に新町の一新尋常小学校を首席で卒業しました。
幼い時の立石一真少年はきかん気が強く、「よく遊びまたよく遊んだ」やんちゃ坊主でした。
 
やがて芸術家肌でも商売が下手だった父・熊助が42才で逝去して家計はいっそう衰退、母エイは下宿屋を始めていますが生活は楽ではなかったのです。
このため立石一真少年も新聞配達で家計を助け、一家の戸主(こしゅ)としての自覚や独立心も養われていったのでした。
このころに貧乏の辛さや働くことの大切さを学んでいたのです。
 
 
・1913年(大正2年、13才)、名門熊本中学に合格、新聞配達で学費や家計を助けています。
しかし配達先からのクレームなどで閉口していて、子供心も大きく傷ついたようでした。
立石一真は中学で好きな学科は「数学、英語」だったと言っています。
 
 
・1918年(大正7年、18才)、熊本高等工業高校(現熊本大学工学部)の電気化学科に合格します。
戦時中のためドイツからの医薬品や染料、化学薬品が輸入できず、このために電気化学の振興が期待されていたので電気化学を学ぶことになります。
しかし第一次世界大戦も終わるとドイツからの輸入も復活したために、電気化学業界は不況となって就職先業界としては受け入れゼロの状態でした。
 
 

青年時代(20~30代)

・1921年(大正10年、21才)熊本高等工業高校を卒業、なんとか兵庫県土木課に就職します。
がややあって、辞表を提出しています。
このあたりのことは、逸話としてあとで紹介しています。
 
 
・1922年(大正11年、22才)、同級生からの紹介で、失業中の立石一真青年は川北電気企業社の配電盤を下請けしている井上電機製作所に再就職をします。
給与は世間相場の75円だったのです。
 
 
・1926年(大正15年、26才)、井上電機で生活も安定したので、母と弟を京都に呼んで、会社から住宅資金援助も受け、竜安寺近くに借地、母のために敷地60坪で3Kの持ち家を実現したのです。
 
このときの持ち家計画や準備中のの喜びが、やがて昭和30年代初めの会社創業時には20-30代社員への持ち家制度へとつながっていったのでした。
ただでは転びません。
 
 
・1929年(昭和4年、29才)、このころには井上電気で設計に専念でき、誘導型保護継電器のベテランになっています。
この保護継電器は当時先進国であった米ゼネラル・エレクトリック社などから日本に輸入されていて、国内各社はこの国産化を競っていたのです。
 
そしてこの保護継電器(リレー)技術が、後に立石一真が立石電機を創業する基盤となっていったのです。
《第一次世界大戦で不況になります》
 
 
・1928年(昭和3年、27才)、祖母の遠縁でも会った佐賀出身の山田家の長女元子と結婚します。
なかなかの親孝行と評価され、若いのに持ち家などから、前途有望な青年と見込まれたのでした。
翌年には長女啓子、翌々年には次女明子が生まれています。
 
 
・1930年(昭和5年、30才)、井上電機を希望退職します。
この年、金解禁令がデフレ対策で発令され、京都の電機メーカーはみんな受注減で火の車です。
 
井上電機でも人員整理が始まり、立石一真は「希望退職」しました。
ここからが大変です。
 
 
・1931年(昭和6年、31才)、実用新案のズボンプレッサーを作り訪問販売して、苦労が多い貴重な体験をしています。
・ナイフ・グラインダー
次に商品化したのが実用新案の”ナイフ・グラインダー”でした。
しかしいろいろ手を尽くしてもなかなか売れず、縁日で説明販売までしています。
 
 
・1932年(昭和7年、32才)、同級生から「レントゲン撮影用の優秀なタイマー、とくに20分の1秒の撮影ができればきっと売れるよ」と教えてもらい、試作を完成。
やがて大日本レントゲン製作所からの長期のOEM(相手先ブランドでの製造)契約を得ました。
 
 
・1933年(昭和8年、33才)、量産のため、京都では地の利も不便なのでもっと納入先に近い、大阪・東野田に「立石電機製作所」を創業。
このころにはレントゲンタイマー用の保護継電器を汎用化して、各配電盤メーカー向けに販売を思いつき、やがて立石電機は”継電器の専門工場”として電気学会雑誌にも広告し、重電大手などからも受注していきます。
 
 
《室戸台風が上陸》
・1934年(昭和9年、34才)、この室戸台風の水害で、なんと継電器修理の需要があって、経営も少し楽になっています。
この年には家族が水入らずの生活をやっと送れていましたが、母エイが58歳の生涯を閉じました。
 
 
・1938年(昭和13年、38才)、継電器の受注も増え、新しい工場も竣工させて、この年には浜松町に東京出張所を設けて、弟の立石晋に任せています。
 
 

壮年時代(40~50才代)

《日本が旧満州に進出を始める》
・1941年(昭和16年、41才)、日本の大陸進出で継電器の需要が増加、最盛期には月産2-3000台、従業員も250人になっていたのです。
家族の住まいも西宮・甲子園口に移ります。
すでに次男信雄や三男義雄はすでに大阪の都島や野里時代に生まれていました。
 
 
《太平洋戦争突入》
・1944年(昭和19年、44才)になると、B29の爆撃を避けるために工場分散などと疎開先を探す事になり、昔住んだ竜安寺から洛西あたりを探し、最終的に本社所在地としたのが京都市右京区花園土堂町で、松竹京都第二撮影所、もと嵐勘寿郎プロダクション跡を譲り受けて分工場にしました。
 
 
・1945年(昭和20年、45才)、終戦です。
戦後の電力需要に対応できるようにと電流制限器の開発生産が始まって、活況を呈しました。
 
 
《ドッジラインの設定》
・1949年(昭和24年、49才)、ドッジラインによるデフレ政策で、電力会社からの資金の流れが一挙に止まります。
このころには労働組合ができたり、また業績不調で倒産寸前にまで追い込まれています。
 
 
・1950年(昭和25年、50才)、妻の元子が胃がんで逝去、享年39才の若さでした。
あとには女子大を卒業した長女啓子を筆頭に5男2女を残して先立ったのです。
この啓子は翌年に宝酒造の四方家の長男とめでたく結婚、幼い弟や妹たちの近くに住んで、その面倒をみてくれたのです。
 
 
・1953年(昭和28年、53才)、アメリカの「オートメーション工場」の技術に大きな関心を持ち、この「オートメーション」を立石電機の新しいマーケットとして開発することを決断し、全社員に「ゴー!」と号令します。
そのオートメーションに電子計算機を組み合わせると「サイバネーション」(通信、制御、情報処理をトータルで取り扱うオートメーションの進化系)となることにも気付いたのです。
 
 
・1955年(昭和30年、55才)、前年からオートメーション用の機能部品の本格的研究開発を始め、この年には保護継電器などで年商が1.2億円になりました。
 
 
またオートメーションの機能部品が開発され採算点になると、子会社の工場として全国に分散するように独立スピンオフさせていったのです。
これは立石一真創案のネオ・プロデューサ-システムと名づけていました。
 
 
・1958年(昭和33年、58才)、そのころSONYがトランジスタ・ラジオを販売成功していたことから、立石一真はこのトランジスターを使った無接点のスイッチができそうだとひらめきました。
この年の創業25周年記念日に、研究部門に対して“夢のスイッチ”ともいわれる無接点スイッチの開発を指令しています。
 
このころ、後発メーカー第一号として松下電工が制御用のマイクロスイッチの生産を始めています。
このことで立石一真は、しっかりと「オートメーション市場」が有望であることを天下の松下電工から裏書してもらったと逆に得心したのですね。
 
 
・1959年(昭和34年、59才)、この年ドラッカー教授が来日しアメリカ流の経営学ブームが起こり、5カ年計画などの長期経営計画策定が流行しました。
 
 
・同年、「我々の働きで、我々の生活を向上し、よりよい社会をつくりましょう」の社憲をつくっています。
このモットーは社員の名刺に刷り込んで取引き先にも渡していきました。
 
 

老年時代(60才代~)

・1960年(昭和35年、60才)、無接点近接スイッチが完成し、”夢のスイッチ”として国際見本市にも出展、大きな反響を呼んでます。
数年遅れでGEやウェスチングハウス社も開発に成功しています。
 
さらにこの年には昭和34年当時の資本金の4倍を投入した中央研究所が京都の長岡天神に完成し、あわせて有能な技術者を1000人採用しています。
この中研で開発する商品でもって昭和39年度までの新5ヵ年計画の売り上げ達成目標100億の6割を、ここから開発する新商品で占めることと指令したのでした。
 
 
・1962年(昭和37年、62才)、売り上げが30億円になっています。
昭和40年には東京株式第二市場に上場しています。
 
 
・1968年(昭和41年、63才)、100億円の目標を達成していたのです。
この土台には中央研究所の新設稼動と参加エンジニア群の活躍があったからでした。
 
このときの売り上げの内訳には、新たな分野となった阪急・北千里駅での無人駅システム、京都府警の河原町三条での交通管制システム、さらに三菱銀行
に納入したオンライン現金自動支払機などを開発し、日本初の実用化と普及による先行者利益として大きく売り上げに貢献しました。
いわゆる「サイバネーション」社会の実現が証明された瞬間でした。
 
 
・1961年(昭和36年、58才)、長女啓子が嫁いだ先の姑(しゅうとめ)でもあった54才の信子とめでたく再婚します。
これは息子たちが計らったこともあり、また当時親代わりの長女啓子がいる姑宅を頼ってよく息子たちが訪れていたことから、良くなついていたのでこの結婚には周囲も大賛成だったのです。
 
 
・1969年(昭和44年、66才)、ライオンズクラブから依頼があって、徳島大学と共同でサリドマイド児用の電動義手を開発しました。
NHKでも『手ができた』としてドキュメント放映されました。
またこの功績もあって、論文にまとめて医学博士の学位を受けています。
 
 
・1970年(昭和45年、67才)、これからの情報化時代に備えてと、私財を投じて日本初の財団法人・日本総合研究所を(茅誠司理事長)を開設し、一般にも開放しました。
 
 
・1971年(昭和46年、68才)、別府にあった重度の身障者施設”太陽の家”建設の話がありました。
ここで職業訓練をすませた重度身障者が自らが働く電機工場をつくって、翌年にはオムロン太陽電機として発足しました。
 
その後、かって学んだ西医学健康法とオートメーション技術を取り込んで、10年後の健康産業への展開のためと立石ライフサイエンス研究所を設立しています。
 
また”R&D(研究開発)先行企業”と評価され、米の先端技術であったNASA技術を取り込むべく米マウンテン・ビューにオムロンR&Dイン・コーポレートを設立し、数々のアウトプットを得ています。
 
 
・1979年(昭和54年、76才)、立石電機会長に就任します。
46年間の社長の座を長男の立石孝雄に引き継いでいます。
 
このころには、趣味人としての油絵や詩作、また京都の粋どころにも顔を出して余生を楽しんでいます。
 
 
・1983年(昭和58年、80才)、年頭に会長自ら「立石電機は大企業病にかかっている」と宣言し、全社あげての大企業病一掃の取り組みをしています。
 
 
・1990年(平成2年、87才)、立石一真は取締役相談役に退きます。
併せて会長に長男・孝雄、副会長に次男・信雄、社長に三男・義雄がファミリーとして就任しました。
まだ同族経営そのものですよね。
 
立石一真相談役は「立石電機」から「オムロン」への社名変更を指示しています。
「企業の公器性」を常日頃唱えていた立石一真が将来の同族色からの脱皮も想定してのことだったのですね。
 
 
・1991年(平成3年、81才)、立石一真死去、90才でした。
後継にすべて任せることができ、創業者として行く末を安心されたのですね。
この後、オムロンの社長は一般社員出身者から選ばれて、同族経営から脱したのですね。
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立石一真の名言15選

1.「幼い日々に思う存分遊んでこそ、人脈は広がり、ロマンは育ち、そのこころの襞(ひだ)が創造(想像)力を生み出す基となる」
少年時代に良く遊び、また生活を助けるための新聞配達などでの苦労や工夫また友人ができたりしたこと、当時を述懐したときの言葉でした。
 
 
2.「人にほめられて有頂天になり、人にくさされて憂鬱になるなんておよそナンセンス。
なぜなら、そんなことぐらいで自分自身の値打ちが急に変わるものではない」
熊本中学の頃、友人の家に出入りしたことがうわさとなって、その友人の妹たちの家庭教師をしたいためだと言われたことがありました。
それで何日か悩んだのですが、一つの悟りを得ました。
 
それがこのときの名言でした。
後に企業の経営者となって毀誉褒貶(きよほうへん)の中にあっても常に平静にいられたのは、このときの悟りがあったからだと述懐しています。
 
 
3. 「われわれの働きで、われわれの生活を向上し、より良い社会をつくりましょう」
立石一真は1953年(昭和28年)、業界団体の米国視察に参加し、米国企業の活気や発展をしているのは、「キリスト教信仰と開拓精神」があるからだと考えました。
 
立石一真がこれに代わって企業を伸ばす理念をと模索したのが
「社会に奉仕する企業には、その企業を伸ばすための『経費』として、社会が利潤を与えてくれる」
ことだと考えることにたどり着いたのです。
 
そこから歳月をかけて説いてまわってできたのが、社憲である「われわれの働きで、われわれの生活を向上し、よりよい社会をつくりましょう」だったのですね。
この社内での位置づけから、“何のために働くか”が浸透して、企業を伸ばす源泉ができ、経営もやりやすくなったと言っています。
 
 
4.「いつも自分の受け持ちの仕事に打ち込め。
功利的な思惑がなくても将来必ず何かに役立つときがある」
中小企業であった井上電機勤務時代は、継電器の試作や失敗でずいぶん悩まされたことがあったのです。
しかしその経験があったので、立石電機創業時のレントゲンタイマーなどの開発納入に成功したのでした。
“芸は身を助けた”ということでした。
 
 
5.「私の心に宗教心が植えつけられた」
立石一真の少年時代、父母はともに熱心な日蓮宗信者でした。
この母親の毎朝の勤行(ごんぎょう)のときは、ひざに抱かれてお経を聞かされたので、知らず知らずのうちに子供心に宗教心が植え付けられていったのです。
 
立石少年が怪我をして帰っても、「大難は小難」といって「これぐらいで済んでよかった」と慰められたのです。
 
後年になって立石一真が次女の明子の突然の死去に遭遇した時には、幼少時代の思い出が甦ってきて、またこのころの経営状態が悪いこともあり、不幸な気持ちであったのを毎日の読経三昧で乗り越えることができたのでした。
宗教心がなくなりかけている現代こそ、幼少時代には親御さんから信仰心を見せておくことが大切だと述懐しています。
 
 
6.「ものごと”できません”というな。どうすればできるかを工夫してみること」
オムロンの企業文化には「まず、やってみる」ということがあります。
 
難しいテーマでも、どうすればできるかを悩んで考え抜く中で、頭が鍛えられて人間も成長できるという意味です。
この精神でオムロンでは、難しい開発テーマであっても、これを解決するような数々の業界トップクラスの特許取得にむすびついていったのです。
 
 
7.「人間(じんかん)万事塞翁(さいおう)が馬だ」
立石一真少年が熊本中学の高学年になると、当時の時代背景から海軍兵学校を受験しようと決めて勉強をはじめます。
受験の動機は当時新聞配達をしながらの苦学生であり、同じ上級学校へ進むのなら家計を助けるためで、受験料がいらない海兵がいいと考えたのですね。
 
結局学科は全部合格したのですが、最後にジャケットの寸法測定をしたときに、体格検査で落ちてしまったのです。
このときに合格した同級生は、みんな第二次世界大戦で戦死してしまいます。
 
もしあのとき受験に合格していたら、ブーゲンビルの海戦で海のもくずになったんだと思った時の名言でした。
本当に人生では、そのときは不運でも、あとで振り返ると運がよかったと思うことがありますよね。
 
 
8.「知識よりも知恵である」
努力向上をする上で必要なのは、知識より知恵である。
知識を仕事の上で活用できる人でないと、大きな成功は収められない。
このためには科学的に計画を立てて、実行、検討を繰り返すように要領よく努力することだといっています。
 
 
9.「経営では7:3の原理でやってみる」
経営ではまず、やってみることが大切である。
七分どおりできると判断したら、勇気を出してまずやることが重要であります。
あとの三分はリスクを計算しておけば良いという名言です。
 
 
10.「技術者特有の訥々(とつとつ)さが売り物」
立石一真は技術者だったので、それ特有の訥々(とつとつ)さが売り物で、まず自分を売り込み、それから会社を売り込み、お終いに商品の売り込みでした。
お酒の相手にも誠実につとめて、弱い人にはそれなりに、強い人にはとことんまでと…それで酔いつぶれた失敗談も何度かあったのですね。
 
 
11.「企業の法則もまた適者生存である」
生物も生存を続けて行くには、環境変化に適応できないと滅びさって行くのが適者生存の法則である。
古今からあるおびただしい企業が興り、かつつぶれていく。
 
ところが国家、社会、経済、科学技術の革新に適応することができた企業は生き残り栄える。
企業の法則もまた「適者生存の法則」であるという名言でした。
 
 
12.『新商品などのきっかけになるのがソーシャル・ニーズである』
経営者の一番重要な仕事は、自分の企業を高成長のマーケットにのせることである。
 
しかしまったくの新分野をも考えておくことが重要である。
それには社会的に必要性の高いニーズを、できるだけ早くとらえて、それを満足させる技術や商品を開発することがソーシャル・ニーズであるとの名言です。
 
 
13.「SINIC理論」
立石一真が人類社会の進展の歴史を見て、これからの未来を予測した考え方です。
1970年に国際未来学会で発表したものです。
 
SINICとはSeed-Innovation to Need-Impetus Cyclic Evolutionの略ですね。
シーズ(種子)とイノベーション(改革)、ニーズ(需要)とインピタス(刺激)の間に生まれるサイクリック・エボリューション(円環的関係)があることから、人間の進歩意欲から円環的に相互間を行きつ戻りつするであろうことを主張していました。
 
関心の有る方は下記の資料でご確認ください。
(https://www.omron.co.jp/ir/irlib/pdfs/ar16j/ar16_27.pdf)
ここでは時代を年代別に図式化して理論付けています。
 

  • 1876年~ 機械化社会(自動制御技術)
  • 1945年~ 自動化社会(電子制御技術)
  • 1974年~ 情報化社会(IT革命社会)
  • 2005年~ 最適化社会(生体制御技術)
  • 2025年~ 自律社会 (精神生体技術)
  • 2033年~ 自然社会 (超心理技術)

 
 
 
あくまで仮説でしょうが、この会社ではこのような年代別のソーシャル・ニーズを捉えて未来へ向けて取り組んで行くのですね。
 
 
14.「答えなんて人から聞いたらあかんで」
今や超優良企業である日本電産社長であった永守重信氏に対して、同じ京都企業の大先輩として忠告したときの言葉でした。
「私も永守さんと同じような道を歩いてきた。
あなたもその道を乗り越えんと、向こうの世界には行けへん。
答えなんて人から聞いたらあかんで」
という忠告の名言だったのです。
 
 
15.「最もよく人を幸せにする人が最もよく幸せになる」
立石一真がその人生を振り返って、得た結論であって、同時に私の信条・信念だと「私の履歴書」の冒頭で述べています。
立石一真が妻や家族、また社員を幸せにできたことが、まわり回って自分が幸せだと思えるようになった。
この考えで皆も幸せになってくれということですね。
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立石一真の逸話

立石一真の主な逸話を紹介しましょう。
 

新聞配達のつらさ

熊中時代、新聞配達の受け持ち区域は熊本の旧市内で、母校の小学校の学区で土地カンもあったのです。

でも友人宅も多くて、配達の姿を見られたら恥ずかしいと心配していた年頃でした。
 
ある雨の日に配達した先から、新聞がびしょぬれだというクレームが入ったのでした。
それは中の良かった友人の大きなお宅だったのですが、配達担当が立石であると、新聞店主が名前をご主人に話してしまいました。
 
しかし、ここの親友のお父さんは、気の毒をしてしまったと、その縁で大変に可愛がってもらえたそうです。
よかったですね。
 
でも立石一真少年は所帯をもった30才をすぎても、このころのクレームの夢を見るほど、子供心が大変傷ついたとのことでした。
また当時は貧乏学生だったので通学靴も買えずに、素足に下駄で通っていて、冬などは霜柱を踏みながらの登校で、つまづいた時の痛みは涙が出るほどだったと述懐しています。
 
 

最初の就職先

21才で熊本高等工業高校を卒業し、なんとか兵庫県土木課に就職します。
主な仕事は姫路市の揖保川上流に発電所を建設するための現地調査でした。
 
母親には毎月の給与85円や出張手当の中から30円を仕送り続けることができました。
ところがあろうことか山奥の現場なので、長期出張扱いでもらう給与の使いみちもなく、新入社員4人の仲間で芸者遊びの連日につづく豪遊、やがてうわさを聞きつけた県庁から呼び戻されますが、結果はあっさりと4人とも辞表を提出しています。
 
この経験はやがて立石一真が粋人ともいわれ、祇園(ぎおん)や先斗町(ぽんとちょう)を地元とする京都財界で存在感を見せるのに活かされたのでした。
 
 

ズボンはさみの製造販売から

兵庫県庁を退職してから、つぎの井上電機もしばらくして希望退職します。
不景気でも身の回りの家庭用品なら売れるだろうと、井上電機時代に実用新案をとっておいた「ズボンはさみ」(今のズボンプレッサーの原型)の商品化で一旗あげようとしたのです。
 
龍安寺の自宅を担保に入れて資金を作り、京都・東寺の西南に工場付きの長屋を見つけて、古機械を置き、家族ともども引っ越しました。
「ズボンはさみ」の一貫作業で量産に入り「採光社」という名前をつけて売り出しました。
 
家庭訪問販売でも1日1~2台は売れるようになったのですが、生活はぎりぎりだったのです。
この当時なんと京都・大阪間の京阪国道を自転車で往復4時間したり、また神戸方面へも売りに行っていました。
 
 

ナイフ・グラインダーと香具師(やし)

ズボンプレッサーの次に商品化したのが実用新案取得の”ナイフ・グラインダー”でした。
しかしいろいろ手を尽くしても、なかなか売れず、ついに京都の東寺の縁日で「いっぺんやってみるか」と勇気を出して説明販売をすることになったのです。
 
新米の説明に共感してくれたのか少し売れ出すと、入れ墨のおっさんが「誰にことわってんねん」と現れて、ショバ代として50銭巻き上げられました。
やがて隣の香具師(やし)が「そのネタ、わてらにも売らして」ときたのです。
 
現金取引で明日からでもということで大喜びして、帰ってから妻元子に言うと、彼女もそっと東寺の縁日での夫の姿を見に来ていたようですが、その恥ずかしい姿を見るに偲びず、すぐに引き返したと笑っていました。
 
そのうち香具師の親分からも可愛がられて、大阪や神戸でも販売の契約ができたのです。
とくに神戸は兵庫県庁時代に遊びまわった町なので、懐かしかったことでしょう。
それにしてもよくやりますね。
 
 

レントゲンタイマーから立石電機創業の幸運が

1932年(昭和7年、32才)、このころには専門の電気での商品化がやりたくなってきていました。
そんなところへ同級生が島津製作所のレントゲン販売をやっていて、ある日「レントゲン撮影用の優秀なタイマー、とくに20分の1秒の撮影ができればきっと売れるよ」との情報が入ったのでした。
 
そこでひらめいたのは、井上電機時代の誘導型継電器を工夫すればできるということです。
つてを頼って、タイマー用の継電器や部品をかき集めての試作を完成させ、その上に「立石医療電機製作所」の銘板を貼ったのですね。

 
そのうちまた友人からの紹介があって、この試作1号機を船場に新築された日生病院に納めて、説明した後でレントゲン装置につないで撮影の実地試験をすることになったのです。
見事「いっぱつOK」だったんです。
 
すごいですね。
この成功で日生病院の先生が懇意にする大日本レントゲン製作所の社長に紹介してくれて、無事長期のOEM契約ができるんです。
ひさしぶりの大量受注、運が向いてきます。
 
 

考案・特許で社員に創造の醍醐味を

立石一真は井上電機時代、社内での軋轢(あつれき)から、という熊本人の反骨心「肥後もっこす」が興っています。
このために仕事の意欲が衰えて、自分の創造性のはけ口を本職以外のズボンはさみやナイフとぎ、安全とりかご、台所用品などで実用新案を出すという横道にそれて行ったのでした。
 
この時の反省もあって、若い社員にはヒントを与えて考案・特許の手助けをし、本人を考案者・発明者として出願させて花を持たせるようにしたのです。
この要領で、若手が一度創造の醍醐味を覚えると、もうはずみがついて次々と発明・考案するようになって、人を育てることができたのですね。
このこともあって、立石電機は特許出願数で、有数の知的財産保有企業となっており、特許収入も増加していた国内でも数少ない企業でした。
 
 

オートメーションからサイバネーションへ

1953年(昭和28年、53才)、「能率」の草分けであった上野陽一先生から話を聞いていたアメリカの「オートメーション工場」の技術に大きな関心を持っていました。
今がチャンスと「オートメーション」を新しいマーケットとして開発することを決断、全社員に「ゴー!」と号令します。
「企業の決定的瞬間」だったと、後に述べています。
 
また自動制御技術にフィードバックの機能を加えるとオートメーションになり、それに電子計算機を組み合わせると「サイバネーション」となるんだと気付いたのです。
 
この元となった「サイバネティクス」(米MITのウィナー博士が提唱)という言葉は、妻元子の健康を相談していた西式健康法の西勝造先生を囲む会から耳に入ったものでした。
ベンチャー精神での大企業への道筋ができた瞬間だったのですね。
 
 

太陽の家の建設

1971年(昭和46年、68才)、別府亀川温泉所にあった重度の身障者施設である”太陽の家”建設の話が、当時の自民党橋本登美三郎や評論家の秋山ちえ子さんから、やってみないかとの紹介がありました。
ここでは職業訓練をすませた重度身障者が自らが主体的に働く電機工場をつくる事になって、翌年にはオムロン太陽電機として発足しました。
 
また社員である重度身障者にも株を持たせて、世界でも例をみないような新機軸を出し、中村理事長の考えも「気の毒な人として特別扱いしない」との徹底したスパルタ教育をして、モラル抜群の創業1年目から黒字創業を誇り高く続けています。
 
社憲のとおりの社会貢献の実現でした。
その後、大分国際車イスマラソンのスポンサーにもなっています。
 
 

社名をオムロンに

ときどき質問されるのがオムロンの名前の由来です。
立石一真は同族経営イメージの「立石」の名前を社名から外すことを考えていました。
 
戦時中に本社を右京区華園町に疎開していたので、この界隈の地名であった由緒ある「御室(おむろ)」から、外国人でも女性にも親しみやすく読み間違いのない「omron」(オムロン)としたのです。
立石電機株式会社からオムロン株式会社に変わった瞬間でした。
ちなみに徒然草で「御室」は御室仁和寺がこの地にあることでも有名です。
 
 

まとめ

起業家であり経営コンサルタントの大前研一氏は、
「立石一真が世に出した自動販売機や紙幣両替機、またキャッディスペンサー(ATM)、駅の自動改札機、交通管制システムなどのオートメーション機器やコンピューターとつないだサイバネーション機器などが、今では巷にあふれています。
これらの考え方は、現在のトレンド技術のIoT(Internet of Things:モノのインターネット)技術とまったく同じで、『サイバネーション革命』そのものであって、すでに50年前から立石一真が予見していたものだ」
と述べています。
 
立石一真の経営スタンスは、自ら大企業病を克服し、「起業家精神の復活」を説き、その成果を『永遠なれベンチャー精神』として出版し、世界でも読まれる経営書となっています。
AI時代到来が叫ばれる昨今ですが、経営理念でもあった『機械にできることは機械に任せ、人間はより創造的な分野で活動を楽しむべきである』と提唱したのも、今の時代でこそあらためて味わう必要がありそうですね。

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