江藤新平の名言ベスト5まとめ!年表別に逸話も併せて解説!

江藤新平は肥前藩出身で明治維新を実現した維新10傑の一人でした。
この維新10傑とは幕末から維新を実現した人物が挙げられています。
 
いわゆる薩摩の西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀と長州藩の大村益次郎、木戸孝允、前原一誠、広沢真臣、それに公家の岩倉具視、さらに肥後藩の横井小南と肥前藩の江藤新平が一般的とされています。
 
また維新の元勲と尊称された政府要人には大久保利通、木戸孝允、岩倉具視、三条実美のほかに、やがて反乱軍となった西郷隆盛、前原一誠、それに江藤新平がいました。
それに中央政府では非主流派で新平と同じ肥前の大隈重信、副島種臣、また土佐の後藤象二郎、板垣退助たちがいました。
 
 
さて、この江藤新平には新政府で実行した多くの改革実績があります。
新政府では司法卿にまでなって中央集権化法治国家の礎となった諸制度を整備していったのです。
まさに日本の司法秩序を組み立てた功労者は江藤新平だったのでした。
 
しかし征韓論を巡る政争で大久保たちに破れて下野。
やがて明治新政府に対して「佐賀の乱」を起こしたのです。
江藤新平はこの首謀者として逮捕されたのち、斬首されさらしくびにされ、その写真が公開頒布されたことで有名になりました。
 
 
ところで同じように新政府に刃向かい西南戦争を起こした、やはり元勲の西郷隆盛と比べると現在の知名度や人気は高くありません。
ではなぜ人気がないのか、この記事では江藤新平がどういう人物で何をやったのか、なぜ前時代的なさらしくびの刑になったのかについて名言や逸話などを紹介しながら、その背景に光を当てていきます。

江藤新平とは

江藤新平は1834-1874年に活躍した明治維新の功労者のひとりで新政府の参議司法卿を務めた元勲でした。
 
新平は佐賀藩の貧しい下級武士の家に長男として生まれています。
藩校などで勉学し、神道や尊王思想を学びますが、脱藩して京都に上り公家の三条実美たちと交流していたのです。
 
そのうちに佐賀藩に呼び戻され永蟄居を命じられますが、藩主はその能力を買って郡目付けに任じたのでした。
やがて請われて明治新政府に登用され、江戸では軍監に任ぜられて戊辰(ぼしん)戦争で彰義隊を壊滅させたり、江戸を東京の名称に変えるよう提言したり、また判事としては民政や会計・営繕で力を発揮したのです。
 
その後文部大輔(たいふ)から司法卿(法務大臣兼最高裁判所長官のような立場)になり、この間フランス民法編纂に取り組み、また司法権の独立警察制度も実現させたのでした。
 
やがて参議にまで進みますが、西郷隆盛や板垣退助と一緒になって征韓論を主張して破れたため一同は下野したのです。
佐賀に戻った新平は反政府の不平士族の集まりである佐賀征韓党の首領に、断れずに担がれてしまうのです。
 
つぎには憂国党とも挙兵しましたが、あえなく仇敵の大久保利通指揮下の政府軍に敗れてしまい敗走することになったのでした。
薩摩から土佐へと援軍を求めて流れて行き、やがて高知の寒村で捕らえられて処刑されたのです。
 
この処刑の背景には、新政府で江藤新平が「急進的過ぎる改革」を進めたためと、長州閥の井上馨や山県有朋の汚職を糾弾して辞任に追いやったりしたため、新政府のトップである大久保利通に遺恨を持たれたことがあったためです。
 
大久保は佐賀の江藤新平や薩摩の西郷隆盛を「政敵」として不平士族と共に反乱させて潰し、みせしめのために抹殺することに決めていたのでした。
 
それではこの江藤新平の出生から逝去までを年代を追って紹介していきます。
 
 

江藤新平の年表

江藤新平の活躍した姿をわかりやすく年代を追って、その時の出来事とともに紹介して行きます。
 

少年期(~10代)

-1834年(0才)、肥前国佐賀郡八戸村(現在の佐賀市八戸 )に下級武士の長男として生まれます。
-1848年(14才)、藩校の弘道館に入学、生活は困窮していましたが成績は優秀だっそうです。
-1953年(19才)、佐賀の吉田松陰との名声があった儒学・国学者であった枝吉神陽の私塾に学びます。
このときの門下生には副島種臣や大木喬任(たかとう)、大隈重信がいました。
この時代に新平はその精神の核となった神道尊王思想を学んだのです。
 
 

青年期(20-30代)

-1856年(22才)、ペリー来航などの時勢を見て開国が必要なことを著した『図海策』を執筆して評価され、時の明治政府に勤めるようになります。
 
-1857年(23才)、結婚し、佐賀藩の砲術や貿易を担当します。
この砲術はやがて戊辰戦争で活かされることになったのでした。
 
-1862年(28才)、佐賀を脱藩して、京都に上がり長州の桂小五郎(木戸孝允)や開国派の公家らと広く交流して「京師見聞」の書を著しています。
このあとすぐに呼び返され帰藩しますが、藩主鍋島直正からは脱藩の罪(死罪)を許されて永蟄居(無期の謹慎)を命ぜられたのです。
江藤新平の見識を高く評価した名君鍋島直正の英断でした。
 
蟄居後も維新の同志との交流は続けており、時代の変化に柔軟に対応、幕府軍の長州征伐の時には出兵すべきかを藩主の直正公に進言したりしていたのです。
 
-1867年(33才)、大政奉還があり、新平の蟄居も解かれ藩の郡目付けとなります。
このころ薩長は公家の岩倉具視らと組んで王政復古の大号令を発していたのでした。
この新政府が誕生すると佐賀藩も積極参加して江藤新平は同藩の副島種臣といっしょに京都に派遣されたのです。
まさに滑り込みセーフともいえるタイミングで時代の波に乗っていったのでした。
 
-1868年(34才)、旧幕府軍との戊辰(ぼしん)戦争で、江藤新平は東征大総督府軍監に任命されて江戸へと向うのでした。
 
-1869年(35才)、江戸開城のあと京都に戻り、「江戸を東京と改めるべき」と岩倉具視に提言していたのです。
また彰義隊を佐賀のアームストロング砲で壊滅させ功績をあげました。
そうして明治新政府の有能な官吏、会計局判事として民生から財政や会計、また都市問題などで手腕を発揮したのです。
 
-1870年(36才)、佐賀に戻り準家老になって藩政改革を手がけました。
その後、ふたたび中央政府から呼び戻されて太政官中弁となります。
 
この年末には佐賀藩の下級武士に虎ノ門で襲撃され負傷もしていたのです。
これは藩政の改革で既得権を失った下級武士らによる暴走でした。
 
-1871年(37才)、制度取調専務として国家の機構整備や民法の編纂にも取り組みました。
この頃には江藤新平は近代的な国家の礎(いしづえ)となる中央集権国家四民平等の考えを説いていたのでした。
 
-1872年(38才)、司法省が設置されて司法卿や参議などを歴任し、この間には学制、四民平等、警察制度を整備して近代化政策を進めていきます。
とくに司法制度では司法職務の制定裁判所の建設民法や国法の編纂に注力していたのです。
 
江藤は急進的な民権論者でもあり、新政府上層部、とくに長州閥の山県有朋や井上馨に対してはその汚職体質を厳しく追及し、ついには二人を辞職にまで追い込んだのでした。
 
新政府トップの大久保利通は、やがて「自分も不正を暴かれて失脚させられるのではないか」、また「明治新政府としても面目を失わされた」と考えました。
そしてそれなら「先に江藤新平、できれば西郷も不平士族反抗といっしょに排除してしまおう」と強く意識したのです。
また大久保ら政府内の保守派は、江藤新平の進める西欧型の三権分立推進に激しく抵抗したのです。
 
-1873年(39才)、朝鮮出兵などの征韓論が原因となって一大政変に発展し、江藤新平は西郷や板垣、後藤正二郎・副島種臣と共に、政府要職から離任して下野したのでした。
新政府の総帥であった大久保利通が江藤新平に対する積年の遺恨を果たすべく、佐賀討伐の追討令を明治天皇から得ていたのです。
 
 

壮年時代(40代)

-1874年(40才)、佐賀の乱の首謀者として捕らえられ、公開処刑され、斬首の上で3日間さらし首とされたのでした。
まだ40才の若さでした。
 
大久保利通はかねてよりこの「梟首(きょうしゅ)の刑」にすべく、まず士族の地位を剥奪してからと練り上げていた残酷な私憤の刑であったのです。
ひどい話です。
 
しかし15年後の1889年には大日本帝国憲法発布の恩赦で江藤新平はその賊名を解かれて、1916年には正四位を贈られ名誉回復されたのです。
以上が江藤新平の歴史年表です。
 
つぎに江藤新平が遺した名言を紹介します。
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江藤新平の名言ベスト5

これからという時に処刑された江藤新平は、名言というものを余り残していないようなのです。
ここでは言い伝えられている5つを名言として取り上げました。
 
 

①『人智は空腹よりいずる』

佐賀藩の下級武士の長男として生れ、家が貧しかったのですが、藩校弘道館に入学してからは猛烈に勉強に励みました。
この頃、若き日の江藤新平が良く言ったのがこの口癖でした。
窮乏生活の恥ずかしさを『人智は空腹よりいずる』と、空腹だからこそ智恵が生まれると強がっていたのでした。
 
 

②『牛馬に物の返弁を求むるの理なし』

江戸時代には芸娼妓の人身売買はなかば公然と行われていたのでした。
江藤新平は、
「人身売買は日本政府の公認するところで、国民に対して芸娼妓などの人身売買を公許しておきながら、他国民に対してこれを禁ずるは、理由なきものである」
として海外に対しても恥じるべき風習である人身売買の禁止令を発布しました。
 
芸娼妓を借金で縛っている雇い主は猛反対しますが、表記の名言を記載して、彼女たちは牛馬と同じ酷い待遇を受けているが、「牛馬に返済を求めても駄目である」として雇い主の抗議を封殺したのでした。
こうして芸娼妓は牛馬の扱いから解放されたのでした。
いかにも江藤新平ならではの面目躍如で、「大岡裁き」にも似て痛快な名言です。
 
 

③『フランス民法と書いてあるのを日本民法と書き直せばよい』『誤訳も妨げず、ただ速訳せよ』

江藤新平は
「日本国には民衆をまもる民法と言うものがない。
欧米でもとくにフランス国の民法が日本の制度によく適している。」
として、当時の議会に翻訳した条文を毎回上呈していたのです。
しかしフランスは当時のドイツとの戦争に敗れた直後で、「なぜドイツ民法にしないのか」との抗議が多くありました。
 
「日本を三権分立にするにはフランス民法で」と確信する江藤新平は、
「その翻訳をとにかく早くやれ」、「フランス民法の単語を日本民法に変えるのが一番早い」、「少々翻訳が間違っても良いから、とにかく速訳せよ」と叱咤激励したときの名言でした。
 
この時に遺した漢詩の一句に「仏国うずくまるといえども其の法は美」「哲人は敗成の痕に惑わず」とありました。
その後このフランス民法だけでなくドイツ民法を元にした日本民法が公布されたのです。
日本民放
 
 

④『唯(ただ)皇天后土(こうてんこうど)のわが心知るあるのみ』

佐賀の乱で捕えられ斬首される時、江籐は「ただ皇天后土(こうてんこうど、天と地)の、わが心を知るあるのみ」と、声高く三度叫んだといわれています。
「自分の心はただ天地のみが知っている」の意でした。
 
 

⑤『ますらおの  涙を袖にしぼりつつ  迷う心はただ君がため』

江藤新平の辞世の句だと伝わっています。
法律ではなく強引な力でもっての死刑判決で、現在では違法なものでした。
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江藤新平の逸話

江藤新平の知名度がもう一つなのは、やはり「佐賀の乱」という反乱を起こし、九州で不平不満を抱く旧下級武士たちを糾合しての明治政府に手向かったことで賊軍とされたことが原因でしょう。
歴史は勝者が作るもので、江藤新平の汚名が日本国中にばら撒かれたのでしょう。
 
人気も出ませんでした。
さらし首になった江藤新平の写真が処刑直後から一般に販売され、流布されて貶(おとし)められたたことも、暗いイメージがつきまとう結果になったのです。
さらし首の写真は戦後にまで教科書などでも散見されました。
 
仇敵大久保利通の徹底した私怨が公の特権を利用した復讐劇となったものです。
 
 

アームストロング砲

佐賀藩が所有していた新式のアームストロング砲とその砲術は維新各藩から一目置かれていたのでした。
旧幕臣の彰義隊を解隊させたのが、このアームストロング砲を駆使した遠方射撃だったのです。
アームストロング砲
江藤新平は大村益次郎と一緒になって彰義隊討伐を主張し、江戸軍監として勝利したのでした。
 
 

江戸から東京になる

薩摩の西郷隆盛と幕臣勝海舟の会談によって江戸城が無血開城されます。
このとき江藤新平は城内の重要文書をすぐさま接収して保存したのでした。
 
さらに京都に戻ると岩倉具視に「江戸を東京と改名すべき」と提言したのです。
このことから江戸はやがて明治天皇が入城して「東京」になったのでした。
 
 

司法制度改革の基礎知識はどこで

さて今まで書いたような司法諸制度の基礎知識を、江藤新平はどこで得たのでしょうか。
佐賀の藩校や儒学者で学んだ時でしょうか、京都へ脱藩した維新仲間から得たのでしょうか。
 
伊藤博文や井上馨のように、長州藩からロンドン行きを命じられ西欧文化を目の当たりにして吸収できたわけでもありません。
ただ江藤新平が生まれた頃から藩主鍋島直正は名君ともいわれ、藩独自で天保の改革を推進していて、西洋の軍事技術を多く取り込んでいていたのでした。
 
例えば日本初の蒸気船反射炉の建設、またアームストロング砲などの大砲も鋳造していたのです。
反射炉
実際佐賀藩は長崎出島を警備し管轄していたところから、秘密裡に西欧の文化を取り込んでいたのです。
 
大砲や艦船などハードウェア面だけでなく民政や人権などのソフトウェア面でも江藤を初めとする佐賀の青年たちを啓蒙していったと考えるのが自然でしょう。
 
江藤が22才のときには開国を説いた意見書『図海策』を著し、また京都へ脱藩して諸国の情勢を分析報告した『京師見聞』を著して藩の重役に提出しています。
司法制度改革の見識は、これら佐賀藩の長崎出島から、また京都で出会った勤皇の志士や急進派の公家たちからの情報などを得て養われていったのでした。
 
 

なぜ山県有朋や井上馨を追及したのか

戊辰戦争に勝利した新政府は薩長勢力の力を見せつけるように、廃藩置県を成立させました。
 
その結果として新政府の主導権は薩長がとって、その要職を占めてしまいます。
大久保利通は大蔵卿として予算と警察力を握っていて、絶大な権力を持っていました。
 
江藤新平はそれが我慢できなかったのでした。
当時大蔵省は警察権まで握っていて、司法権は独立できていなかったから、江藤新平はこの警察権を司法省に移したのです。
 
これはちょうど大久保利通らが参加する岩倉使節団が欧米に出発している留守の間。
その間に、江藤新平は民主的な司法制度の改革をやってしまったのでした。
 
また官尊民卑の習慣が残る日本で、官吏の腐敗を厳しく追及できるような法治国家をめざしたのです。
これが井上馨や山県有朋をターゲットにした事件の背景でした。
 
 
山県有朋に対しては、山城屋和助事件で辞職に追い込みます。
長州軍閥の元締めであった山県有朋と政商山城屋の汚職を徹底追及しました。
山県有朋は山城屋を自殺させることで責任を回避しようとしたのです。
これには同じ軍閥の薩摩からも追及されることとなって陸軍大輔を辞職させられました。
 
 
次のターゲットは長州の大物で大久保利通の代行であった大蔵卿井上馨でした。
かっては井上馨は江藤新平の司法省入りを許した恩人でもありました。
しかし藩閥の悪政退治に執念を抱く江藤新平はある政商村井某からの訴えをとりあげます。
 
井上が独裁する大蔵省は、尾去沢銅山を含む村井某の財産をいきなり没収してしまい、つぎには国有財産の払い下げをしてなんと井上馨の個人資産に変えていたのでした。
これを公にすることで、大久保利通の代理でもあった大蔵卿井上馨まで辞職させたのでした。
 
 
さて岩倉使節団から帰国した大久保利通は、この二人の盟友たちの失脚を知って激怒しました。
若輩の江藤新平が「大久保利通外遊中の留守中は新しいことはしない」との留守居の約束を破った上、外遊中に参議や司法卿になったあげくに大久保の息のかかった大蔵省から司法権をとりあげていたのですから。
 
「明治国家は俺が作った」と自負する大久保利通は、江藤新平が留守役でもあった西郷隆盛と組んで征韓論を支持していることが、国家をこわして反逆しようとしていると危機感を覚えたのでした。
 
 

大久保利通の術策に嵌(はま)る

朝鮮出兵を巡っての征韓論からの政変では、江藤新平は西郷隆盛や板垣退助、後藤象二郎それに副島種臣と共に下野してしまったのです。
 
このとき、大隈重信や板垣退助、後藤象二郎は「江藤が帰郷することは、大久保利通の術策に嵌る」ことを見破っていて江藤を慰留したのですが、血気にはやる江藤はこれを無視して、船便で九州に帰るのでした。
このあとは、大久保利通のたくらみのとおりになって江藤は破滅していくのです。
 
 

なぜ『梟首(きょうしゅ)※の刑』 に

※梟首の刑:江戸時代、罪人が極刑になるときの死刑の一つで、首をはねたあと、木の台上に首をのせ公開でさらしものにしたもので「獄門」とも言われていたのです。
中国の言い伝えでは梟(フクロウ)は親鳥を殺して食べるとされていて、親不孝や不義の象徴と見られていたのです。
地方では梟の首を木に吊るす風習があり、このことから首を斬ってさらすことを「梟首」(きょうしゅ)の刑と言ったのです。
 
 
よほど大久保利通は江藤新平を憎んでいたのでしょう。
その清廉潔白さのために盟友の長州の元勲井上馨や山県有朋、また自分まで悪事を追及されそうで、また征韓論ではやはり大久保の政敵である西郷が江藤と組んだのを恐れていたからです。
このためもあって同じ死刑にするなら士族の身分を一旦剥奪(除族)して、一般の罪人が受ける最も厳しいさらし首を選んで、公開の場で辱めようとしたものでした。
 
しかも佐賀地方裁判所での一方的な権力による理不尽な即刻の死刑実施をして、嘆願による執行猶予の余地も無くさせてしまったのです。
またさらし首の写真は意図的に広く販売されて、見せしめに貶(おとし)めたものです。
これがなぜ梟首の刑になったかの真実の背景だったのです。
 
 

『江藤醜態 笑止なり』

江藤の司法卿時代からなにかと対立していた大久保利通でした。
さらに征韓論でも対立していて遺恨ともいえる確執があったのです。
 
その大久保利通が自身の日記の中で『江藤醜態 笑止なり』と罵倒し、また『大安心』とも書いて後世に遺そうとしたのです。
なんと卑劣なのでしょう。
 
ところがなんとこの大久保利通も4年後には、不平士族たちにより紀尾井坂で暗殺されてしまいます。
まさに後世から「笑止なり」といわれても仕方がないでしょう。
 

江藤の遺族は

江藤新平は1889年に大赦で賊名を解かれています。
子孫たちは

  • 次男の江藤新作は衆議院議員になり犬養毅の側近でした。
  • 孫の江藤夏雄は満鉄職員や官吏、のちに衆議院議員でした。
  • ひ孫の江藤小三郎は昭和44年建国記念日に国会議事堂前で自決。
  • ひ孫の江藤兵部は航空自衛官から空将になりました。

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江藤新平の最期

江藤新平は西郷も決起してくれると期待していたのですが、西郷は立たなかったのです。
このこともあって佐賀の乱では反乱軍は新政府軍から大攻撃を受けて簡単に瓦解していったのでした。
 
しかたなく江藤新平は自軍に解散命令を出して、再起を期すべく船で薩摩へ脱出します。
そうして鹿児島の温泉では湯治中の西郷隆盛に会って、薩摩士族の挙兵をと頼みましたが、西郷隆盛はこれを拒否しました。
 
つぎに九州宮崎から船で四国の土佐に向います。
土佐でも武装決起を説得するためでした。
四国の宇和島に上陸した新平は土佐の同志に会いますが、ここでも断られてしまいます。
 
それではと京都の岩倉具視に意見を具申しようと動きますが、高知ではすでに写真で指名手配されていたため、江藤新平は捕縛されて佐賀へと護送されたのでした。
この写真手配制度は江藤新平が制度化したもので、なんとも皮肉な事に適用第一号となってしまったのです。
 
すでに大久保はくまなく指示をして、急ごしらえで佐賀裁判所を設置させていました。
裁判長はこれも金銭で買収されていた河野敏鎌が大久保の意図を汲み、裁判を仕切りました。
 
河野敏鎌は司法省時代の部下だったのですが、大久保の台本通り『除族の上梟首の刑』を判決したのです。
地方裁判所での権限では死刑宣告はできなかったのですが、やはり大久保から手が回っていたのです。
 
この時点でも江藤新平は「まだ助かるのでは」と信じていたのです。
しかし時を移さず同日の夕方には、渡瀬刑場で処刑、その首は近くの千人塚で三日間「さらし首」とされました。
これが江藤新平の最期の姿でした。
 
この結果を知った大久保利通は、江藤が梟首判決で茫然自失となったと聞いて『江藤醜態笑止なり』と後世に残る日記にわざわざ記し、また『大安心』とも日記に記していたのでした。
後刻、福沢諭吉は「これは、司法卿時代の江藤への私刑である」と糾弾し、やがて反政府の声も大きくなり、やがて各地の反乱や西南戦争につながっていくのでした。
 
 

さいごに

松本清張の短編小説「梟示抄(きょうじしょう)」では、江藤新平の逃避行が緻密にこれでもかと描かれていました。
それは不遇の将が栄光の座である法務卿から転落して辺境の地で捉えられ、やがて故なく身分剥奪の上死罪となり獄門処刑されるまでを描いたものでした。
 
松本清張の短編小説には、明治維新の改革に取り残されて不満を持つ士族をテーマにした名作がいくつかありました。
いずれも残酷なほどに時代に翻弄されていく報われない人物が主人公として描かれています。
 
江藤新平も自分が法整備した裁判で、自分の部下でもあった裁判長から、ありえないような即刻の死刑宣告と処刑、それも古い時代の極刑であるさらし首にされたのです。
すべて大久保利通による復讐の筋書き通りに進められたのでした。
 
しかしなんとこの大久保利通がやがて暗殺されたというのもビックリさせられると共に、歴史はなんと皮肉なものかと感じてしまいます。
これが因果応報なのですね。

この記事を書いた人